中国では、子どもが生まれると新しい漢字を作ってその子の名前にする習慣がある。例えば、「王」とか「玉」とかという字には高級感がある。そこで、よく名前に使うふつうの漢字に「王偏」とか「玉偏」をつけて、今までにない新しい漢字(あったとしても、普段の生活では使わない珍しい漢字)を作り、命名する。
ひとりひとりのヒトはこの地球上にひとりしかいない。理屈の上ではそうである。正しい。だから、他の子とは絶対違う、その子だけの名前をつけたい。ふむ。それも、「気持ちは分かる」気がする。そこで、新しい漢字を作る。え? ちょっと待ってくれ。「漢字って、勝手に個人が作っていいの?」そうだね、そんなこと、日本ではしちゃいけないに決まっている。辞書に載ってない漢字を新しく作っても、意味も読み方も分からないから、誰も読んでくれない(あるいは、呼んで)これないだろう。なぜかっていうと、辞書に載ってないから、調べようがないからだ。
日本ではそうである。ところが、中国では違う。なにしろ、中国は漢字発祥の地なのである。私たちが有り難がって使っている漢字は、全部、いやほとんど全部、中国で生まれたものなのだ。ということは、中国人が作ったものなのだ。だから、中国に行けば、新しい漢字を作るなんて当たり前。。。ん?
これには、もうひとつ事情がある。言語環境の違いである。日本では、「訳」という字は「ヤク」と読むが、「駅」という字は「エキ」と読む。Yaku と Eki である。アルファベットで書くと、似た発音であることは分かるが、それでも違うことには変わりがない。なぜ違うか、いろいろなケースがあるが、ひとつには、漢字がいつ日本に伝わったかによって、発音が違うケースがある。その当時に栄えていた中国の都市での発音が漢字の字形とともに日本に入ってくるからそういうことになる。日本からみて、漢字は中国から入ってきたものだから、どう読むかは中国でどう読んでいるかをお手本にして決まることになる。ところが、そのお手本が時代によって変わるので、字形が似た漢字でも発音にバラエティー(英語、variety、ヴァライアティー)が出来てしまうのである。日本人の子どもはそれをせっせと、この場合はこう、この場合はこうとひとつひとつ暗記しなければならない。同じ「沢」という字の右側であっても、「訳」の場合は「ヤク」、「駅」の場合は「エキ」と覚えなければならない。
一方、中国では、漢字しか文字がない、つまり自分たちの言語を書きしるす唯一の文字が漢字であるから、何千年も同じ漢字を使っているうちに、言語の方が自然に変化して発音が変わったときには、漢字の読み自身がそれに伴って変わる。つまり、言語の変化(進化かな?)に連動して、その道具である漢字も変化してきたというわけ。字形は基本的には変化しない(実際は、筆記用具の変化とともに変化してきたが)のに対し、文字の発音は、言語の音韻体系の歴史的変化に連動して変化してきているのである。つまり、漢字は自分たちの言語により近い存在、手慣れた道具であり、外国文化から流入してきた「借り物」ではない。どこか外国に「使用法マニュアル」みたいな「お手本」があるのではなくて、自分たちが生きたお手本なのだ。だから、自分たちの生活の都合に応じて変えて良いという発想がある。だって、そのための漢字でしょ?というわけである。
これが第一の理由。第二の理由は、そういうわけで、中国語でも漢字とその発音との関係はいちいち暗記しなくてはならないものというよりは、みれば推測がつく程度の規則性はあるということだ。漢字の成り立ちは6通りに分類されていて、それを六書(りくしょ)というが、その中で8割程度を占めるのが「形声文字」である。これは、偏が意味を、旁(つくり)が音を表すという構造のことである。たとえば、「狼」という漢字は左側の「獣偏」が動物という意味(分類)を表し、右側の「良」が発音を表している。だから、「狼」は「動物」という大分類の中の「りょう」と呼ばれる動物という小分類を表している。「柏」は「白」と呼ばれる木を表す。このように、漢字の中にはその発音を表す役目を担(にな)っている部品が含まれており、それを「音符」という(音楽の音符とは違います、念のため)。
このように、漢字の組立てがわりと論理的に分かりやすく出来ているので、新しい漢字を作っても、おおよそ意図した通りの発音で読んでもらえるという安心感がある(ただし、イントネーションに当たる声調というものがあり、それは微妙であるのだが)。中国人にとって、漢字は表意文字というよりは表音文字に近いといえる。基本的な、小学校で習うような文字の読みを知っていれば、初めて出会った文字でも発音できるのである。そのこと、つまり、規則性を利用して、いろいろな俗字も作られ、使われている。
まとめると、もともと自分たちが生活の為に発明した文字なので、自分たちで必要な文字は作れるという気持ちの働きがあること、漢字の字形と音との関係が日本語の漢字よりも規則的であること、この2つの理由によって、中国人は新しい漢字を作ることに抵抗がないと言える。
ところで、そんなことをするものだから、漢字の数がどんどん増えてしまう。康熙字典には約50000文字の漢字が「親字」(おやじ=見出し)として載っていると言われているが、それに加えて現在もどんどん漢字は増えているのである。
それにしても、勝手に漢字を作るとは、迷惑な話である。ひとりのヒト、ひとつの土地を表すためだけに新しい漢字が作られたのではたまらない。なぜ、そんなことをするのか。
上では、新しい漢字を作る行為にあまり抵抗がない理由を2つ挙げたが、それは状況的、周辺的理由である。もっと積極的な理由は、上にも書いたが、この世にひとつしかない私だけの漢字が欲しいからである。あるいは、この土地を表示するためだけの特別な漢字が欲しい。それによって、自分たちの郷土が世界にひとつしかない祝福された土地になる(ような気がする)。
実は、そういうことは日本人もやっている。例えば、渡辺さんというヒトがいる。いえいえ、私は渡邊ですというヒトがいるかと思えば、とんでもない、私は渡邉なんですというヒトもいる。「辺」という文字の人名用異体字を数えると、全部で16通りほどもあるそうである。日本のJIS漢字では、それらの異体字全部が書き分けられるようになっている。つまり、それぞれの異体字にちゃんと漢字コードが割り振られているわけですね。これは考えようによっては、漢字コードという文化的資源のとんでもない無駄使いである。どうして、そんな無駄なことを日本の技術社会は認めているのだろうか。答:人名はそのヒトにとってかけがえのないものだから。つまり、日本社会も、どうしてどうして、固有名詞の表記については、個人の我がままな気持ちに対して「甘い」のである。
アメリカにはハーゲンダッツとかのアイスクリームのブランドがあるが、その綴りを知るとびっくり驚く。なぜ、そんなへんちくりんをするのだろうか。
わざとへんちくりんをする。人目を惹く。そうすると、それが「カッコ良い」からである。商売では人目を惹くことはかなり大切である。そのためには、わざとカッコ悪いことをするのが、結局は得策なのである。