工学部 基礎教育研究センター

8が抜けました

ヨハン・シュトラウスの「こうもり」(Die Fledermaus)は軽快で愉快なオペレッタとしてあまりにも有名である。その原作はフランス人によって書かれた「レヴェイヨン」という喜劇だそうである。オペレッタにするにあたってヨハン・シュトラウスが作曲を担当した。レヴェイヨンはフランス語で仮面舞踏会という意味で、クリスマスイヴにお楽しみ会として行われる。また、大晦日の大晩餐会という意味もある。

もともと喜劇であるので、深刻なテーマのようなものはない。今年の4月にすみだオペラで「こうもり」の演出を担当された直井研二先生は、劇中のパーティーに世界各国からのお客様が登場することから、世界平和がテーマなのではないかとおっしゃった。確かに、彩り豊かな登場人物が楽しく愉快な宴(うたげ)を繰り広げるのはこの芝居の特徴である。劇の解釈は時代や世相によっても変わるだろうが、区民のためのオペラという催しを全体として見た場合、世界平和は現在の日本の周辺地域の状況に照らしても妥当なテーマではないかと思う。北方領土問題や北朝鮮による拉致被害などの問題が平和的に解決されることを直井先生とともに願うのみである。

さて、仮面舞踏会という設定から、さまざまな事件が起こってもおかしくないと想像されるが、実際、さまざまなおもしろいエピソードが次々と繰り広げられる。そして、物語の全体は「こうもりの復讐」という復讐劇となっていることが次第に明らかになる。

オペラの公演は原語で行われることが多い。よくあるのは、イタリア語、ドイツ語、フランス語である。しかし、「こうもり」は日本語で公演されることも多い。イギリスで公演されるときは、役柄によってドイツ語、英語、フランス語、イタリア語が歌い分けられることもあるようだ。物語のパーティーに国際色豊かなお客様が招待されているという事情もある。

この点について、やはりすみだオペラに助っ人として参加した音大を卒業して間もない若手の声楽家たちの意見を聞くことができた。結論から言うと、彼らはやはり原語でないと歌いにくいということだった。音大の声楽科ではオペラを原語で歌うことにかなりの時間をかけているだろうと思われる。声楽科の学生はほとんどがオペラ歌手を目指しているという事情もあり、音大に入学すると、日本語の歌を練習する機会は却って少なくなるようだ。

音大生が日本語で歌うのが難しいと思った理由は主に2つあるようだった。ひとつは、オペラの曲はもともと原語で歌うように作曲されているということだ。ヨハン・シュトラウスの場合はドイツ語が原語となる。そこに日本語を当て嵌めようとすると、音符が足りなかったり余ったりして無理が生ずる。一般的に日本語は意味に対して音節数が多い。ドイツ語で「Ich liebe dich.」と言えば4音節だが、「愛しています」と言うと7音節必要だ。そこで、ひとつの4分音符を8分音符ふたつに分けたりしなければならない。せっかくのおもしろい歌詞が削られ、ドイツ語らしい語尾の響きが奏でる押韻の効果は無残にも消え去ることになる。だが、日本語には日本語の面白さがあり、工夫すればそれなりに言葉遊びを楽しめる。

もうひとつの理由は、日本語版が何通りかあるからだ。現在、「こうもり」の日本語版としてよく使われているのは、日本オペレッタ協会によるものと、二期会によるものとの2つがある。もともと同じオペレッタを訳したものだから、共通する部分も多いが、オペラ歌手はどちらかで一度歌ったことがあると、それが記憶に残ってしまい、別の版で歌うのは難しい。そして、誰かひとりのソリストが歌詞を間違えると、その歌手とやり取りをしているほかの歌手もセリフや歌詞を間違えてしまう。コーラスにも基本的には同様の問題がある。

話を「こうもり」の内容に戻そう。上で原作のタイトルに仮面舞踏会の意味があると書いたが、実際に第2幕でパーティーが始まると、そこに仮面を付けて登場するのは、この物語の主人公であるハンガリーの伯爵夫人ひとりだけである(注)。そこにこのオペレッタのもうひとりの主人公で裕福な銀行家アイゼンシュタインが現れて、美しい彼女を口説こうとする。このとき、小道具に使うのが時計である。(注:ただし、第3幕ではアイゼンシュタインが弁護士に変装する。)

実は、この時計というのが女物で、第1幕に登場したアイゼンシュタインの妻でもと女優でもあるロザリンデの時計である。女性ならば女物の高級時計に興味を示すだろうというアイゼンシュタインのイヤラシイ魂胆なのだが、果たせるかな、伯爵夫人は時計に目が眩(くら)んでしまう(ようなフリをする)。

伯爵夫人 「何故か目が眩み、こころ時めく」
アイゼンシュタイン 「あー、その時めきは愛のうずきさ」
伯爵夫人 「それが本当なら、私の胸も、時計のように刻むのでしょうか」
アイゼンシュタイン 「時計のように!」
伯爵夫人 「数えてみれば」
ふたり 「さあ、数えて、さあ、数えて、さあ、数えて!」

オペレッタにはたくさんのおもしろい場面があると書いた。中でも、ふたりが時計の刻みを数えるこの場面はこの芝居で最もおもしろい場面のひとつであると私は思う。

アイゼンシュタイン 「1、2、3、4」
伯爵夫人 「5、6、7、9」
アイゼンシュタイン 「7の次、8が抜けました」

ここで伯爵夫人は何故8を抜かしたのだろうか。胸の時めきが原因のようでもあるが、真意はよくわからない。よくわからないが、この場面はとても面白く、何度聞いても盛り上がる。私はこの場面ではつねにドキドキする興奮を覚える。

1、2、3、4と数えることは数学の基本である。数えるだけでも楽しいのに、オペレッタではセリフが歌となり、さらに楽しげにリズミカルに数えることになる。さらに、オーケストラの伴奏がその楽しさを引き立てる。そして、とうとう「8」が抜けるのである。落語の「時蕎麦」もおもしろいが、それにも増して興奮するのがこの場面である。

ふたりが時計の刻みを数える場面はこの後もさらに続く。

ふたり 「1、2、3、4、5、6、7、8」
伯爵夫人 「9、10、11、12、13、14、15、16」
伯爵夫人 「17、18、19、20、30、40、50、60、80、100」
アイゼンシュタイン 「ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、速くなる」
アイゼンシュタイン 「6、7、8、9、10、11、12」
アイゼンシュタイン 「ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、すごい! 600」
伯爵夫人 「速すぎないかしら」
アイゼンシュタイン 「もう行きました」
伯爵夫人 「いえ」
アイゼンシュタイン 「100万まで」
伯爵夫人 「いえ」
アイゼンシュタイン 「100万まで、行った!」
伯爵夫人 「とても速すぎるわ」
アイゼンシュタイン 「数え切れないほど」

ここでは、ふたりの胸の時めきとともに、時計の刻みがどんどん速くなるという現象が起こっている。胸の時めきは心臓の鼓動である。冷静に考えるとこれはありえない。ふたりの「愛の共同作業」によって小道具である時計までもが、その刻みを狂わせたのだろうか。

歌詞をよく見てほしい。伯爵夫人は「20」まではひとつずつちゃんと数え、その後、しばらくは10ずつ増えていく。そして、「60」に達すると、「60、80、100」と歌っている。20跳びになり、70、90が抜けている。「17、18、19」の辺りはちゃんと歌っているのにどうしたことだろうか。さきほど8が抜けた理由は説明がつかない。しかし、ここで70と90が抜ける理由は何となくわかる。ヒントはフランス語である。フランス語で70、80、90はとても複雑な言い方になる。ことに70と90は難しい。70は60+10、90は4×20+10と言わなければならないのだ。このオペレッタの書かれた言語はドイツ語だが、原作はフランス語で書かれている。

アイゼンシュタインは、「100万まで行った!」と言っているが、これもおもしろい。なぜ100万なのか。自然数の列は無限に続くが、アイゼンシュタインは、100万までが一応の数の区切りだと言っているのである。つまり、アイゼンシュタインはまだ無限という概念を獲得していない素朴な小学生の数学観を体現していると言えよう。また、私たち日本人には100万という数字は中途半端にみえる(1億の方がキリが良い)のに対し、ヨーロッパの言語では1000とか100万(ミリオン、最近の科学的な言い方ではメガ、これは1000の2乗である)は大変にキリの良い数字なのである。

さて、オペレッタ「こうもり」には数が登場する場面がもうひとつある。それは第2幕の終わりの方になって、時を告げる鐘が鳴る場面である。鐘の音が聴こえると、アイゼンシュタインは慌ててそれを数える。1、2、3、4、5、6まで数えるとすぐに「帽子、帽子、行かなくちゃ」と叫んでそわそわする。

アイゼンシュタイン 「待たせているんだ」 「帽子、マント、くださいな」

こうして、アイゼンシュタインとフランク(刑務所長)は中座し、パーティーはふたりを見送った後も、シャンパンを称える歌とともに楽しく続く。。

ここで、アイゼンシュタインは6まで数え終わったとたんに「帽子、帽子、行かなくちゃ」と歌い出していることに注意しよう。刑務所にはその日のうちに、つまり、夜中の12時までに出頭しなければならない。鐘の音が6を数えるとそれはすでに12時を意味する。つまり、7つめの鐘を聞く必要はないのである。

パーティーはロシアの大貴族オルロフスキー公爵の邸宅で行われているという設定になっているが、鐘の音が近くの教会から聞こえているのか、それとも室内時計なのかはわからない。このオペレッタが作曲されたのは1873年から74年(つまり、日本で言えば明治6年から7年)にかけてである。その当時、鐘が鳴る時計にはシンデレラの物語に出てくるように15分ごとに鳴るものもあったが、鐘が6つ鳴ると12時という設定から、2時間ごとに鳴るものもあったのだと思われる。

人間の数えるという行為への説明のつけがたい興味、そして時計と時間こそは、このオペレッタの隠れたテーマであると言えよう。そういえば、第2幕のパーティーの場面の冒頭で、コーラスが次のように歌っているのは、その伏線であろうか。

コーラス 「時がすぐに過ぎて、退屈なんかしない、合言葉はともに、ともに、ともに楽しむだけと」

ヨハン・シュトラウス「こうもり」
1874年4月5日初演、全3幕

ルートという名の少年

外来語:バッグかバックか

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