芸術学部 基礎教育

2013年度リレー連載 第11回:3・11と原子力発電

*この記事は、小川真理子 基礎教育教授が執筆しました。

 3・11の津波とその後の原子力発電所事故は、多くの人に、今の生き方で良いのだろうか、考えさせたのではないだろうか。私もその一人だった。

 私の大学時代は、核爆弾による殺傷に対して原子力の平和利用が華々しくもち上げられていた時代だった。核分裂で解放される膨大なエネルギーを利用できれば、という単純な気持ちで原子力の勉強を始めたのだが、すぐにその間違いに気づいた。その間違いとは、1)人間は原子力を全くコントロールできていないということ、そして、2)平和利用というといかにも美しいが、実はそれは産業利用でしかない、また原子力の危険性を充分知りながらもそれを嘘で固めて、または見ぬふりをして突き進んでいこうという人たちがいるということだった(嘘というのは、原子力発電は安全だ、何重もの安全装置を配しているなどという宣伝)。

 核の分裂による大きなエネルギーを一度に放出すれば核爆弾となるが、それをコントロールしながら取り出せば原子力発電になる。エネルギーをコントロールすることは、可能だった。しかし核が分裂することによって分裂破片が出るが、それが大きな放射能を持つ、その放射能をコントロールすることは今の人間にはできないのだ。これが化学反応なら、温度をあげたり冷やしたりで反応のスピードを変えることができる。だが放射能はどんなに温度を上下しても、圧力を上げても全く関係ない。放射能を下げるのはただ、時間の経過のみなのだ。核種によっては数秒で無くなるものもあるが、ものによっては何万年も放射線を出し続けるものもある。
 放射線は大量に浴びれば即死だが、少量であっても癌になる確率が上がるし、DNAを傷つけるので遺伝的な影響が避けられない、危険なものである。やむを得ず出てしまった核廃棄物等の放射性物質はどうするのか。それを全く処理することができない以上、隔離して保管するしかないが、原子力発電ではどんどん廃棄物が出てきて保管場所はすぐにいっぱいになってしまう。事故のあるなしにかかわらず、廃棄物がどうしようもなくなるのは誰でもわかる、自明のことだったのだ。すでに日本の原子力発電所の廃棄物は、許容量の7割以上を使ってしまっており、必要な期間保管することができる容器すら、いまだ開発できていない。加えて、地震の多い日本、人口密集地帯である日本でいったん事故が起きれば逃げ場を失って多くの人が生活の場を失う、これもまた自明のことだったし、まさしくそれが現実となってしまったのだ。

 上記のことは少し勉強すれば誰でも理解できることである。だから、電力会社の幹部社員や技術者たちは皆そのことを知っているはずである。それでも、会社に入ればその道を進めていかなくては自分の地位が安泰でないとか、職を失ってしまうということで推進していく側になってしまうのだろう。特に原子力発電に関しては莫大なお金がつぎ込まれ(現在も、正常に稼働する展望の無い高速増殖炉に毎年100億円以上が投入されている)、そのお金を左右するということが、知性を麻痺させてしまうものなのかもしれない。

 第二次世界大戦後、DDTなどの殺虫剤や農薬をまき散らす製薬会社に対し、農薬の危険性を訴え、土壌生物や昆虫、鳥たちが豊かに暮らせる社会こそが、人間も安心して暮らしていける社会であると主張した女性がいた。レイチェル・カーソンである。レイチェルは『沈黙の春』という本の中で、我々の前には二つの道がある、と書いている。一つは高速道路のような華やかな道、しかしこの道路を行っても将来はない。もう一つの道は草ぼうぼうで歩くのに苦労するかもしれないが、その道を行かねば、人類の未来はないというのだ。
 3・11と原子力発電所の事故は、まさしくこの二つの道を示してくれたと思う。原子力発電を続けていく道は、建設労働者、発電所で働く人々、また発電所を受け入れて大金をばらまかれた地方自治体などには一時的には利益があったかもしれない。しかし、前述のとおり廃棄物の処理ができず人類に負担を押し付けている上に、事故が起きて世界中に汚染をまき散らし、被害の後処理もできていない。誠実に補償しようと思えば、最も高くつくのが原子力なのだ。もう一つの道はもちろん、原子力発電に依存しない社会を作る、命を一番に考える道である。

 経済と環境を天秤にかけた場合、我々はどちらの道を取るべきか? 考える鍵は、生きること、生き延びることだ。それだけ考えれば、原発は誰もが反対するはずだと思えるのに、実際には再稼働が必要と思う人も少なくないのが現状である。それは、自分の命だけでなく、他者の命をどれだけ重く感じられるかにかかっている。自分の家が原発の30km圏内にあって避難を余儀なくされている方たちは、当然「あれさえなかったら・・・」と思っている。しかし、自分が今安全圏にいる場合、事故によって被害を受けている人の状況を切実に感じることがどの程度できるだろうか? 今回は福島だったかもしれない、しかし次は自分たちの家の隣かもしれない。我々は想像力を鍛え、どちらの道を選ぶか、賢い選択をしていかなくてはならない。

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