芸術学部 基礎教育

リレー連載「スポーツとアート」

*この記事は阿部一直基礎教育教授が執筆しました。

アスリートが躍動するスポーツとアートのつながりは何かあるのか、それをここで少し考えてみたいと思います。普通なら、これら2つの領域にはほとんど関係はないのではと考えます。スポーツの世界は、明確な勝ち負けや数値化による評価が当たり前ですが、アートにはそうした結論はないのではないか。しかし、私は、それぞれプロフェッショナルのスポーツと現代アートのワールドワイドな動向には、いろいろな相似的関係が見出せるのではないかと思っています。

例えば、プロテニスの世界を考えてみると、参加登録選手は、試合終了ごとに、常にワールドランキングが明確にはじき出されます。どのトーナメントにおいて何位になったか、対戦相手の順位、セット率がいくつだったか、などの詳細な成績が、ルールによってこのランクに即座に反映されるのです。実は、これは現代アートの世界でも同じことが起きており、作品が商品価値を産む限り、世界トップ100の作家がカウントされ、それによる作品価格が変動していくことになります。この傾向は、90年代のバブル経済勃興以降著しくなり、21世紀に入り、ある一面では、アート作品がワールドワイドな金融商品として取引が行われることが常識化した時代を迎えていると言えるかもしれません。

具体例として、ワールドマガジンである「ArtReview」が主催する「Power100」というカウントダウンサイト(https://artreview.com/power-100/)がありますが、世界的に影響力を持つアート関係者(アーティストだけでなく、ここにはキュレーター、プロデューサー、評論家なども含まれます)のランクが掲載されています。ただし、最近の興味深い傾向は、人物だけでなく、事象や運動がここに登場していることです。このテキストの執筆時のランクトップは、「Black Lives Matter」です。

テニスランクにおいても、そしてアートランクにおいても、一時代前は、言葉にはできない形で白人優先の世界観が明確に反映されていました。そこでは黒人やアジア人らは、最初から同じ環境ではスタートできないことが推測されます。スポーツで言えば、テニスコートやプールなどの閉鎖空間には、白人と黒人が同じコートでプレイや練習ができないなどの社会問題があったわけです(これはいまだに解決されてはいない課題です)。このような社会環境に衝突し、乗り越えようとしてきた歴史に、黒人の文化で言えば、スポーツの役割が大きく反映していきます。それは、90年代以降登場した黒人のアスリートでNBAのスター、MJことマイケル・ジョーダンやゴルフのタイガー・ウッズ、そしてテニスのヴィーナス&セリーナ・ウィリアムス姉妹の存在がありました。彼らは、実力と人気で世界を魅了し、その上で目に見えない抵抗を打破し、常識を覆してきたと言えるでしょう。その功績にはリスペクトしかありません。(もちろん、多くのハリウッド映画の黒人スター、デンゼル・ワシントン、モーガン・フリーマン、ウィル・スミス、ハル・ベリー、サミュエル.L.ジャクソンなどの存在は欠かせませんが。)

そして、女子プロテニスの世界ランクの現時点の第2位に、日本とUSの二重国籍(父がハイチ人、母が日本人)を持つ、大坂なおみ選手(23才)がいます。大坂選手が優勝した、2020年9月開催のグランドスラムの1つであるUSオープンでは、「Black Lives Matter(BLM)」が公式のスローガンとして運営委員会によって大会中会場に掲げられました。「スポーツは政治と切り離されるべきだ。」これはかつての30年代のファシズムが席巻していた時代のナチス主催のベルリンオリンピックなどからの反省によって提唱されてきている慣例ですが、昨今の「BLM」は、トップダウンではなく、ボトムアップの集合、市民の声として、その不問律を破るダイナミズムを生み出していると言えるでしょう。(US大統領選挙も絡んだ昨年では、他のプロスポーツでも「BLM」が多く掲げられています。バスケットボールのNBAのプレーオフでは、参加選手全員が「BLM」のTシャツを着用し、背中には自由なメッセージを印字することが許可されました。例えば、トロント・ラプターズのスターター、カイル・ラウリー選手は、「Fundamental Education(基礎的な教育)」という意味深い言葉を表示しています。)

大坂選手は、昨年のUSオープンでとった特別なアプローチで、世界的な注目を浴びました。それはマスクアートです。初戦から決勝まで進むと7戦を戦うことになるのですが、大坂選手は、毎試合、ブラックマスクに何らかの人物名を白ヌキ表示したマスクを掛けてコートに登場したのです。その名前は、以下の7名でした。彼らは、著名人ではなく、白人の警察官や民間自警団に何らかの理由から殺害された、黒人の一般市民の名前でした(その在住場所も年齢も多様です)。

Breonna Talyor:ブリオナ・テイラー(26才女性)ケンタッキー州ルイスヴィル 2020年死去

Elijah Mcclain:イライジャ・マクレイン(23才男性)コロラド州デンヴァー 2019年死去

Ahmaud Arbery:アフマド・アーベリー(25才男性)ジョージア州ブルンズウィック2020年死去

Treyvon Martin:トレイヴォン・マーティン(17才男性)フロリダ州サンフォード2012年死去

George Floyd:ジョージ・フロイド(46才男性)ミネソタ州ミネアポリス2020年死去

Philando Castile:フィランド・キャスティル(32才男性)ミネソタ州ラムゼイ2016年死去

Tamir Rice:タミール・ライス(12才男性)オハイオ州クリーヴランド2014年死去

これらの選択と実行は、表象表現によるメッセージのアプローチであり、現代アートの次元と見なしてもさしつかえないと思います。この中で、トレイヴォン・マーティンの事件は、2012年の「BLM」運動の発端になったもので(「BLM」は、アリシア・ガーザ:当時31才、パトリッセ・カラーズ:当時29才、オーパル・トメティ:当時28才、の異なる州に住む若い3人の女性たちのネットワーク活動によって発起されています)、さらに映像で拡散した白人警官によるジョージ・フロイド逮捕時の死亡事件は、「BLM」が昨年、全米さらに全世界に、2012年以来再び大きな激動を生み出すきっかけになったものでした。

大坂選手のこのマスクアートの行為は、大きな勇気がいるものであったと推測されますが、視点を変えれば、7戦後まで負けない、決勝まで勝ち進むのだ、乗り越えるのだ、という決意がなければという、7名の名前まで到達できない試練を自身に課しているメンタルストーリーとしても注目されます。大坂選手は事後に、試合を見た名前を掲げた被害者の遺族から感謝の連絡をもらい、以下のようなコメントを残しています。

「被害者の家族は本当に強い人たちだと思う。私が同じ立場だったら、自分は何ができるのか想像がつかない。でも私は、人々に関心を持ってもらえるように働きかけている。家族たちの傷は癒えないかもしれないけれど、私にできることは何でもしたい。」「泣くのを我慢していた。私の行いで人々が感動していることに、本当に心が動かされた。私の行いは無駄ではなかった。」

決勝の舞台に、過去の6年前の事件で、12才で亡くなったタミール・ライス君の名前をあえて選択していることも、大坂選手の敢然とした決意を表していると言えるかもしれません。

スコットランドの現代アーティストのダグラス・ゴードンの作品に、1年間に遭遇した知人・友人の名前を、記憶をたどって想起し、壁に全て書き出して印字していくという作品がありますが、それとある意味で同じように、大坂選手のこのマスクアートは、世界生中継されるグランドスラムのシーンで、テニスの試合本番とは別の空間として、名前の映像のみによって、記憶の海から多大な事象を想起させ呼び起こしていく、歴史の一幕を忘却の波の中に決して追いやらない、という強い喚起への意思を込めた表現は、昨年の最大のアート的事件と言っても良いのではないかと個人的には感じました。

大坂選手は、今年2月のオーストラリアオープンでも、セリーナ・ウィリアムス選手と準決勝で対戦し(大坂選手の現在の彼氏が、アメリカのノースカロライナ出身LA在住のラッパー、コーデーです。彼も「BLM」に参加し、そのためのラップを公開しています。彼は、テニスは全く知らず、なおみもそんなにすごい選手であるのか知らなかったと言っていますが、興味深いのは彼が、テニスは知らないがセリーナは当然知っている、それは黒人にとってのカルチャーだからだ、と述べています。)、さらに決勝でも優勝していますが、その際も、村上隆のkaikaikikiのフラワーアイコンによるマスクを着用していました。対戦後のインタビューでは、フランチャイズスポンサーのロゴを、画面内にそっと見えるような自然な着こなしで臨んでいたりと、そのエレガントなスマートさには感服しましたが、その際に、さりげなくパープルのNBAのロサンジェルス・レイカーズのジャージを肩に羽織っているのには心が高鳴りました。

これは、昨年、飛行機事故で不慮の事故死を遂げたNBAレイカーズの黒人のスタープレイヤー、コービー・ブライアントへのオマージュであったかと思われます。コービーは、マンバ・メンタリティという「絶対に妥協しない」「とことん納得がいくまで追求する」というスローガンを自らに課していたバスケットボールプレイヤーでしたが、それを想起させるアイコンを、それとなくプレスインタビューに滑り込ませる大坂選手の咄嗟のしなやかな手法には、驚かされるものがあります。

大坂選手は、NIKE、ANA、日清食品、日産自動車、資生堂、シチズン、ヨネックスなど多数の会社とスポンサーシップ契約を結んでおり、またルイ・ヴィトンのアンバサダにも就任しています。通常であれば、PRとしての広告塔の役割になりますが、こうしたコマーシャルの表象と、「BLM」のような思想的な運動が、存在の中に矛盾なく共有している一連のシーンに、アイコンの強度の新次元を感じたのは私だけでしょうか。また、スポーツとアートの新たな関係性も開けていくのではないかと感じます。

大坂選手、コービー(彼の名前は神戸からきており、父親は長年日本でコーチを務めている)、ともに日本に関係があり、その意味でもインパクトが大きい最近の気になった事象でした。これからも大坂選手のアプローチに注目していきたいと思います。コロナ禍以降、「BLM」運動だけでなく、アジア人へのヘイトクライムによる襲撃事件といった社会問題が拡大してきています。スポーツもアートもこうした課題に無関心ではいられない時代になっているのです。

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