現在、工芸大厚木キャンパスで、平成26年度あつぎ協働大学が開講されており、「希望」を共通テーマに基礎教育の先生が5回のオムニバス形式で登壇しています。
今回は、第1回の平山敬二教授の講義の内容をご紹介します。
「芸術と風土 ー 『希望』としての脱近代」 平山敬二
非西洋世界にとって、近代という時代がそのまま世界のヨーロッパ化を意味するものであったという側面を有することは否定できない事実であろう。芸術の分野においてもそれは例外ではなく、西洋の自然科学が有する普遍性と対をなすような形で、ヨーロッパの芸術には、人類文化にとって範例とすべき普遍的価値が認められ、いわば特権的とも言える地位が与えられてきた。そこでは西洋の芸術文化は普遍的なもので、それ以外の非西洋の芸術文化は単に特殊なものでしかないという構図が成立していたと言っていいだろう。
しかしポスト・モダンの時代と言われる今日において、その構図は大きく崩れつつある。普遍的なものとして扱われてきた西洋文化それ自体の特殊性と限界が指摘され、逆に特殊なものとしての地位に甘んじていた非西洋圏における固有な文化自体の見直しと再評価が時代の趨勢となっている。このような時代状況の中で、皮肉なことに、戦前の国家主義的文化論に加担したものとして厳しい批判に戦後さらされた和辻哲郎(1889-1960)の『風土―人間学的考察』(1928-1935年)は、かえって現代におけるポスト・モダン的な文化哲学に有効な基礎を与えるものとして捉え直されている。
和辻はこの著作において、文化の根底に捉えられる風土的性格を描き出し、それぞれの文化の在りようがその地域固有の自然の在りようといかに密接に結びついているのかを明らかにした。その視点は、西洋文化そのものをヨーロッパの特殊な自然の在り方に基づくそれ自体特殊な文化としてその価値を相対化することを可能とする。一方、美術史学におけるウィーン学派の泰斗であるダゴベルト・フライ(Dagobert Frey, 1883-1962)は、その著『比較芸術学の基礎付け』(Grundlegung zu einer vergleichenden Kunstwissenschaft, 1949)において、西欧美術を他の非西欧文化圏における美術との比較考察の中で相対的に捉え直す道を基礎付けた。
ほぼ同世代に属する東・西のこの二人の碩学の研究成果を対比的に考察するとき、両者は互いの研究成果を知る由もなかったはずであるが、そこには見事な照応の関係が見て取れる。諸民族、諸文化圏の文化的な多様さにおける特殊性と普遍性との問題は、単に並列的にだけ捉えて済ますことのできないものでもあるが、この両者が提示した諸文化を相対的に捉える視点は、現代におけるグローバリズム(地球一体主義)とプルーラリズム(文化的多元主義)の問題を考察するための示唆に富む基礎を提供している。
今日においては、すでにポスト・モダン思想の限界が指摘され、さらにポスト・ポスト・モダンということが語られるようにもなっている。近代におけるヨーロッパの「同一性」を重視する真理主義や普遍主義を否定し、「差異」や「多様性」を尊重するだけの反近代主義は、結局単なる価値相対主義にとどまり、未来の世界構築に向かうための建設的な基礎を形成し得ないとの批判には確かに傾聴に値するものがあると言える。
しかし一方で、美の本質を「多様における統一」において捉えるとき、何よりもまず多様さの尊重ということが根本に無くてはならないであろう。「多様さを犠牲にした統一」も「統一を犠牲にした多様さ」も、それらはともに美の本質から外れるものと言わねばならないが、文化の豊かさにとっては、何よりもまず文化的多様性こそがその前提となると言えるのではないか。
和辻は『風土』の第4章「芸術の風土的性格」の末尾において次のように述べている。「これらはすべて過去のことである。そうして世界が一つになったように見える今では、異なる文化の刺激が自然の特殊性を圧倒し去ろうとするかに見える。しかしながら自然の特殊性は決して消失するものではない。人は知らず識らず依然としてその制約を受け、依然としてそこに根を下ろしている。(中略)我々はかかる風土に生まれたという宿命の意義を悟り、それを愛しなくてはならぬ。かかる宿命を持つということはそれ自身「優れたこと」でもなければ「万国に冠」たることでもないが、しかしそれを止揚しつつ生かせることによって他国民のなし得ざる特殊なものを人類の文化に貢献することはできるであろう。そうしてまたそれによって地球上の諸地方がさまざまに特徴を異にするということも初めて意義あることになるであろう。」
このような和辻の指摘は、グローバル化の進む今日においても、文化における普遍性と特殊性の問題や文化における多様性と豊かさの問題を考えるときの重要な契機を提示していると考えることが出来ると言えるのではないか。またこのような文化的多様さを保持するということは、自然に対する素直な感受性を尊重するとともに、そのような多様性を保持することの意義を理性的にも自覚するということによって初めて可能となると言えるのではないか。
われわれは、和辻がすでに戦前において提示していたこのような視点の中に、21世紀の人類の未来へとつながる確かな希望を見出すことができると言いうるのではないか。