今年度のリレー連載は、基礎教育の教員が目を引いたり、皆さんに紹介したい光景などをもとに文章を綴っていきます。今月は小田珠生先生にご寄稿いただきました。
こんにちは!小田珠生です。「日本語」(留学生対象)や、「日本語表現法」、「日本文学」などの授業を担当しています。
今回、私がご紹介する写真は、こちらの一枚です。

福田豊「Maiden’s mind」
こちらの写真の素敵な作品は、基礎教育教員の福田豊先生による「Maiden’s mind」です。2025年8月から9月にかけて本学で開催された「芸術学部フェスタ2025」で展示されていたので、多くの方がご覧になったことと思います。「芸術学部フェスタ2025」のキャプションの解説には、「彫刻の表面に黒板と同じ素材を使用しており、チョークで書くことやマグネットを貼ることができる。書いては消す行為を繰り返し記憶となる。」とありました。
さて、この作品の少女たちは、二人とも胸の高さで片手を振っているようにも見えますね。福田先生が、ある時、「(作品のようなポーズをとっている場合、)親愛の気持ちを表して手を振っている可能性もあれば、拒絶を意味して手のひらを前に向けて突き出すようにしていることもあり得る」、ということをおっしゃっていたのが印象的でした。確かに、表層だけから含意を理解することは容易ではありません。
私の専門は日本語教育なのですが、「ことば」についても、文字にした時のカタチ、すなわち表層だけでは含意はなかなか分からないということが言えるでしょう。例として、日本語教育の世界では語用論の説明でよく取り上げられる「暑いですね」という表現を見てみたいと思います。誰かが「暑いですね」ということばを発した時、話し手は文字通り気温が高いことについて相手に同意を求めている場合もありますが、暗に「エアコンをつけてほしい」と依頼している場合や、単に会話のきっかけが欲しいだけであるなど、様々な可能性があります。
もともと、日本は「高コンテクスト文化(High-Context Culture)」、すなわち、ことば以外の情報(背景知識や関係、状況など)や暗黙の了解が相手の発話意図を理解するときに大きな役割を果たす文化の国だとも言われます。言い換えれば、コミュニケーションをとる上で「察する」ことが重要とされる文化ということですね。もっとも、このような単純な類型化自体には批判もあり、多様性を尊重する昨今において文化を一括りにして語ることはあまり好ましくありません。しかしながら、留学生が「日本人学生は言外に何を考えているのだろう」と気にする場面が少なくないことを思うと、発話の背後にある含意を読み取ることが求められやすい状況があるのも確かであるように思えます。それでは、他言語を母語とする人々が、日本で日本語を使用しながらコミュニケーションをとる場合、彼らにも日本の文化に合わせて「察する」ことが求められるべきでしょうか。もちろん、対話の相手を尊重し、相手が何を意図しているのか、どのような気持ちでいるのかを想像する努力は誰にとっても必要なことだと思います。しかしながら、そもそも異文化で育った人々に日本の文化に合わせて「察する」ことを強要することは、行動規範の一方的な押し付けになりかねません。
ちなみに、近年、日本語教育では、「良いコミュニケーション=円満な関係」とする姿勢は適切ではないとされています(小林, 2025)。なぜなら、「意見の相違や対立は、それ自体が否定されるべきものではなく、そのことからどう関係を築いていくかが重要だから」です(同上)。本学の留学生と日本人学生が、対話を重ねながら素敵な関係を築く機会がさらに広がっていくことを、心より願っています。
いずれにせよ、「ことば」は、それ自体が独立して存在しているものではありません。「ことば」は話し手と一体化しながら、社会の中で機能しているものなのです。AIが発達して言語教育の意義が問い直されている今、「『ことば』は話し手そのものである」という視点を忘れないようにしたいと改めて思います。
【参考】
小林, ミナ.(2025). 第1章 コミュニケーションと言語 第1節 コミュニケーションと日本語. 日本語教育学会(監修), 現代日本語教育ハンドブック(pp. 9–21). 大修館書店.

















