芸術学部 基礎教育

8月の一枚:「吉川経家のこと知っていますか?」

*この記事は 平山敬二 基礎教育教授が執筆しました。

「今月の一枚」というテーマで始まった今年度の基礎教育ブログですが、今月8月は私(平山)の担当ということになります。ここでご紹介しようと思う写真は、実は今年の3月に撮ったもので、8月に撮った写真ではないので申し訳なく存じますが、「今月の一枚」として皆様にご紹介したい写真という意味でお許し願えればと思います。

以前から交流のあった現代美術家・白川昌生(しらかわよしお)氏が参加する展覧会が鳥取県立博物館で開催されるとの通知があり、後期の授業を終えた今年の3月の春休みに、かなり遠方ではありましたが、とても気になる展覧会でもありましたので、思い切って見に行ってきました。展覧会のテーマは、『誰が記憶を所有するのか』というもので、いろいろと考えさせられる、また大変刺激的な展覧会でもありました。

ここで展示された白川氏の作品の一つ、「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」は、今年の4月から群馬県立近代美術館で開催された企画展『群馬の美術2017〜地域社会における現代美術の居場所』においても出品されることになっていましたが、展覧会初日の前日に、政治問題化し、館長命令で出品中止となり、そのことを巡って、その後さまざまな議論が起こり、それは現在にまで至っていると言ってよいでしょう。

しかしこの写真はその展覧会と直接関係するものではありません。その展覧会をかなり時間をかけて見た後に、すでに午後4時を過ぎ、すでに辺りは少し薄暗くなり、小雨も降っている中を、鳥取城の城跡に近い展覧会の会場近くを散策しているときに撮影したものです。そのためか、とても拙い写真となり、あえてお目に掛けるのにはお恥ずかしいようなものなのですが、歴史と記憶との関係を巡り、しばし考えさせられまた強く心を打たれるものでもありましたので、あえてここにご紹介したいと考えました。

ここに写っているのは、吉川経家(きっかわつねいえ)という16世紀末の戦国時代の武将の銅像で、その背景に写っている山は、鳥取城跡のある久松山(きゅうしょうざん)という山です。またこの銅像の横に立っている説明書は35歳で自刃するに至った経家の死に至る経緯と、その経家の人としてまた武将としての心延え(こころばえ)を顕彰するためのものです。

私は、この説明書の最後のほうに出てくる経家が自刃を前に子どもたちに書き残した手紙の中の「そのしあわせものがたり」という言葉に強く心を打たれるとともに、この言葉が、死を前にした経家の心の中で、どのようにして紡ぎ出されたものかに思いを致し、深く考えさせられました。

8月は、日本にとっていつも8月15日に象徴される戦争というものについて考えさせられる月でもあります。戦争というものの愚かしさや傷ましさについては、日本においてはもはや議論の余地はないものと思いますが、戦争という限界状況の中にあっても、時として示される人の心の美しさには、たとえそれが言葉だけのものでしかないように思われる場合においても、人が人として生きるということの希望と夢とが示されているのではないかと思われるのであります。

以下に記しました文章は、上掲の写真に写っている経家の最期をめぐる顕彰文をそのまま書き起こしたものです。皆様はどのような感想をお持ちになるでしょうか。

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吉川経家の鳥取籠城と自刃のこと

天正九年、天下制覇を目指す織田信長の先鋒として、羽柴秀吉の山陰侵攻が必至となりました。この情勢に対応して、鳥取城を守る軍勢は、吉川の一門につながる有力な武将の派遣を毛利方に懇請しました。山陰方面の総大将・吉川元春はこれにこたえて、石見国福光城主・吉川経安の嫡男経家を鳥取城の城将に任命し、経家はこの年の三月、部下四百余人を率いて鳥取城に入城しました。

羽柴秀吉はこの年の七月、二万の大軍を率いて鳥取城に押し寄せ、帝釈山(太閤ヶ平)に本陣を置き、日本海から鳥取平野、久松山の東側にかけ、約二〇キロメートルに及ぶ大包囲陣を置いて、徹底した兵糧攻めをしました。

鳥取城に籠った二千の兵と民は、毛利方からの救援と食糧の補給を期待し、吉川元春も数回にわたり食糧の送り込みを行いましたが、秀吉方の厳重な遮断により一粒の米も搬入できず、八月以降、次第に飢えて来ました。

そして、九月、十月になると、すべての食糧を食いつくし、遂には人肉を食するという地獄さながらの状態になりました。世に言う「鳥取城の渇殺」であります。

経家はついに意を決して、秀吉の開城の求めに応じました。この時秀吉は、「経家公は、連れて来た兵と共に芸州へ帰られたい」とすすめましたが、経家は、「すべての責は城将たる自分にある」として、兵と民の生命を救って十月二十五日未明、城中広間において、見事な自刃をいたしました。時に年三十五歳。その潔い最期は、武人の鑑として歴史に高く評価されています。

経家が死に臨み、四人の子に遺した次の手紙は、その清々しい心事を物語るものとして、いつまでも人の心を打つものがあります。

「とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらえ候 ひようろうつきはて候まま われら一人御ようにたち おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候 そのしあわせものがたり おきゝあるべく候
かしこ

天正九年十月二十五日            つ ね 家
あちやこ かめしゆ かめ五 とく五
まいる 申し給へ 」

平 成 五 年 十 月
鳥     取     市
吉川経家公銅像建立委員会

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9月の一枚:「ミニシアター」

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