こんにちは。基礎教育准教授の大森弦史です。
「先生、美術史ってもうかるの?」――こんな率直にもほどがある質問を、学生さんから受けたことがあります。「金融業ってもうかるの?」とか「IT業界ってもうかるの?」みたいなノリだったのでしょうかね。こういう聞かれ方したのは初めてだったので、なんだか新鮮でした。確かに「美術史やってる」などといっても、それが一体どういう世界なのか、またその世界でどんな風に生活が成り立っているのか、ほとんどのひとには想像がつかないでしょう。ということで今回は、美術史を専門的に学んだ人間がどんな感じの人生を歩んでいくのか、についてちょっと書いてみたいと思います。
もしあなたが「美術史の専門知識を活かして生きていきたい!」と思ったら、さしあたって大学に進学するのが最も効率的です。美術史を学べる大学自体そんなに多くはないですが、大体の場合「芸術学」「美術史学」といった名前の学科・コースで設置されていますので、そういうところを選んで進学しましょう。しかし大学を卒業しただけでは正直いって物足りないです。さらに大学院に進んで、修士⇒博士の学位を取得するのが望ましいでしょう。ここまで来たら「専門的に学んだ!」といいはって大丈夫です。
晴れて専門家になったあなたが美術史で食べていこうとしたとき、メジャーなルートは2つあります――ひとつは大学教員、もうひとつは美術館の学芸員です。
大学教員は説明するまでもないでしょうが、自分の研究を行いながら専門に関連した授業をしたり、学生指導したりする仕事です。学芸員は美術館に欠かせない専門職であり、所蔵作品の研究・管理・保存・展示などを行ったり、展覧会を企画してカタログを執筆したり、教育普及のための講演などもします。
なお、学芸員として採用されるには、ほとんどの場合「学芸員資格」が必要です。これは大学で取得できますので、なりたいと思っているひとは、進学先に学芸員資格課程が設けられているかをきちんと確かめておきましょう(ちなみに、わが東京工芸大学でも取れますよ!)。一方、大学教員になるのに必要な資格はとくにありません。とにかく研究で業績を積み上げましょう。
学芸員とはこういう展示を行うお仕事です(テート・ブリテン、ロンドン)
とはいえ、そうやすやすと希望通りの就職ができるものではありません。そもそも、どちらも世の中にとって大して人数を必要としない職業ですから、募集自体が少なくきわめて競争率が高くなるのです。また募集があったからといって、それがあなたの専門と合わないこともしばしばです。条件も細かいのですね。
学芸員の場合、日本美術をメインに所蔵している美術館では、西洋美術史の専門家はいくら優秀であっても採用されることはありませんし、その事情は大学でも同じです。そのため「19世紀フランス美術史」といったごくごく狭い分野のなかで、大学と美術館をまたいだ「玉突き人事」がけっこう起こります。A大学の教授が定年退職、A大学にB大学の准教授が就き、B大学にC美術館の学芸員が転職し、C美術館にD美術館の学芸員が移り、D美術館で学芸員が新規募集される…といった具合です。
つまり、あなたの能力や実績以前に、運やタイミングがものすごく絡んでくるのが非常に困ったところなのですが…、だからといっておいしい近道があるわけでもありません。相応の覚悟をもって、地道に業績を積み重ねながらチャンスを待ちつづける根気が求められるわけです。
だからといって、大学・美術館でなければあなたの専門知識を活かせないというわけではありません。
例えばわたしの周辺の例ですと、まず広告代理店や新聞社の「文化事業部」に所属し、展覧会開催にかかわっているひとたちがいます。とくに海外からたくさんの作品を持ってくるような大規模展だと、美術館の独力で実現するのは不可能です。必ずこうした組織が間に入って、予算調達、貸出先との交渉、外部の執筆者・翻訳者とのやり取りなどなど、さまざまなサポートをしてくれます。当然ですが、美術の知識がない担当者ではハチャメチャになってしまうので、専門知識をもった人材が求められるわけです。
美術・芸術に関するコンテンツに関わるひとたちは数多いです。TVの教養番組を製作したり、新聞などで文化・芸術欄を担当したり、美術雑誌の編集に携わったり…、変わり種で小説家になったひともいたりします。また学術書の出版では優れた編集者が不可欠であり、美術・芸術関連を得意とする出版社には、美術史の学位を持ったひとたちがけっこう就職していきます。
ほかにも美術を商材として取り扱う分野、すなわちオークション会社や美術品を売買するギャラリーなどでは、専門知識が商売に直結しますから、実はかなり重宝されます。というか「素人は戦力にならない」といったほうが正確なのかもしれませんが。
こうやって挙げてみると、思ったより美術史を活かせる仕事の幅は広いのかもしれませんね。…あくまで「思ったよりは」ですけども。
で、肝心の「もうかるの?」ですが、まあ…、もうからないと思っておいたほうが精神衛生上いいと思います。しかし「美術はキライだけど、イヤイヤやってる」というひとに出会わない、というのはとてもいいところだなと感じます。キライなひとは初めからこっちに来ませんし、途中でキライになったひとも別の道に進んでしまうので、当たり前といえば当たり前なのですが、好きなことを仕事にして生きていける世界であるのは確かです。美術が好きで好きでたまらないというひとは、将来の選択肢のひとつとして検討してみてはいかがでしょうか。