*この記事は鈴木万里基礎教育教授が執筆しました
前期もそろそろ終わりに近づき、就職活動に悩んでいる学生もいることでしょう。受験、就職、結婚、転職など人生で重要な決断をする時に、自分を知る上で参考になるギリシア神話の有名な挿話をご紹介します。「外国文学」という科目で毎年お話していますが、3000年近く前の物語とは思えないほど、人間の行動を決定づける普遍的な欲求を描いています。
ほとんどの民族は、最古の文学で戦いを描いています(日本は例外)。中でも、最も有名かつ伝説的な戦争は古代ギリシアの「トロイア戦争」でしょう。ホメロスによるBC8世紀頃の叙事詩『イーリアス』に描かれています。実際にBC12世紀にギリシアがトロイア(トルコ西海岸のギリシア人都市国家)を攻略したことが判明しています。神話は決して荒唐無稽な作り話ではなく、事実が元になっていることが多いのです。その経緯は口承で長く伝えられ、400年後に記録されました。古代ギリシアでは多くの作者がトロイア戦争について語っていますが、そのきっかけは「パリスの審判」と呼ばれるファンタジーのような物語です。
テッサリアのプティア王ペレウスと海の女神テティスとの結婚式にオリュンポスの神々が出席します。招かれなかった争いの女神エリスは、仕返しのために祝宴の際に「最も美しい女神へ」と書いた黄金のリンゴを投げ入れます。ゼウスの妻ヘラ、ゼウスの娘アテナ、愛と美の女神アプロディテが自分のものだと主張して争います。困ったゼウスは(恨まれたくないし)、トロイアの王子パリスに判定を委ねます(無責任!)。すると女神たちは各々パリスに「私を選べば○○が手に入る」と報酬を約束し、美を競います。ヘラは「全世界の支配権(=富と権力)」、アテナは「あらゆる戦いでの勝利(=仕事の成功と栄誉)」、アプロディテは「世界一の美女(=美と愛)」。その結果、パリスはアプロディテを選びます。これが、トロイア戦争の引き金になります。
裸体の女神を大っぴらに描ける美女コンテストの場面は画家に大人気でした(もともとは着衣だったはずですが)。でれっとした表情のパリスが3人の美女たちの裸体に見入っている場面は、古今の画家にとって腕の見せどころだったのでしょう。(左からルーベンス、ルノワール、クラナッハによる「パリスの審判」、ちなみにルーベンスは何点も同じテーマで描いていますが、これはロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵)
女神が人間を買収するとは不謹慎ですが、「最も美しい女神」と認められたいなんて人間的。この3つは普遍的に人間が欲するけれど、全部同時には手に入りにくいものです。皆さんには、「高い地位と高収入」「仕事のやりがいと評価」「愛」と置き換えることができますね。
これは、人生の優先順位を知る上で興味深い選択問題です。例えば、仕事を選ぶ時に、「忙しくて楽しくないけど稼げる仕事」がいいのか、「給料はよくないけど自分のやりたい仕事」にするか、「結婚相手の都合を考えて転勤や海外勤務のない仕事、在宅の多い仕事」を選ぶか、という3択になるでしょう。
毎年この授業の最後にどれを選ぶかとその理由を聞いています。15年間を通して1位が「アテナ=仕事の成功」、2位と3位は「ヘラ=富と権力」、「アプロディテ=愛」が、年によって入れ替わります。経済状況が悪化するとヘラが増える傾向です。中には「富と権力があれば愛は手に入る」と考える学生がいますが、それは勘違い。富と権力を狙う人が集まってくるので、いつ追い落とされるか不安に苛まれます。知人の資産家は結婚と離婚を繰り返していますが、「自分が愛されているという実感を持てない。自分に寄って来る女性はカネ目当てに見えてしまう」とか。悲しいですねえ。また、「どれも興味がない」という学生もいますが、それでは自分にとって何が重要かわからないので、決断できなくなります。
この3つがバランスよく手に入るのがベストでしょうが、人生の岐路にある時には優先順位を決めて進む必要があります。周囲の状況が変化したり年齢を重ねると、優先順位は変わるはずです。でも、決断に迷った時にはぜひ「パリスの審判」を思い出してください。
それにしても3000年前に人間の普遍的な欲求を鋭く洞察していた古代ギリシア人の慧眼には敬服します。ギリシア神話には他にも人間心理を描いた興味深いエピソードが多いです。心理学用語(オイディプス・コンプレックス、ナルシシズム、ピュグマリオン効果など)になっているのもうなづけます。現代にも通用するすぐれた物語をご紹介しました。