今年度のリレー連載は、基礎教育の教員が目を引いたり、皆さんに紹介したい光景などをもとに文章を綴ります。
今月は橘野実子先生にご寄稿いただきました。
この写真は昨年度の海外研修での私のお気に入りの1枚です。アニメーション学科の小柳貴衛先生の撮影で、日本に行く予定のオーストラリア人学生と日本人学生が楽しそうに話をしている様子です。情報交換をしているのでしょうか。
この場面では、日本人学生は英語をずっと勉強してきており、オーストラリア人は日本に対する興味があるので、うまくコミュニケーションが取れているようですが、多くの場合、違う言語の人と意思疎通をするのは簡単なことではありません。
バベルの塔の時代、人類が神のようになろうとした結果、言語が混乱して言葉が通じなくなったという話が聖書にあります。そのくらい古い昔から、言葉の問題はずっと人類の課題でもありました。日本では、中国や韓国経由で外国の文化、知識、技術、宗教などを取り入れてきた歴史がありますが、そこには努力して外国語を身に付けた先人たちの姿も共にありました。外国語は必要、便利、でも身に付けるのは大変、というのが外国語に対するイメージかもしれません。
しかし、最近は機械翻訳というとても便利な技術が出てきて、スマホにまで搭載されて多くの人が使っているようです。新宿の街で、外国からの観光客がスマホを取り出して翻訳機能を使って道案内を頼む様子も時々見かけます。
それを横目で見ながら、「苦労して英語を身に付けた」一人である私は、機械翻訳にはまだまだ限界があるから、完全には通じないだろうなあと考えていました。実際、英語の授業で機械翻訳の文章が提出されるとすぐにわかります。英日翻訳はまだしも、日英翻訳は不完全な訳が多い印象です。
そんなある日、初台を歩いていたら、前からドイツ在住のクロアチア人女性がやってきました。その数日前にある会合で知り合った人で、彼女はドイツ語とクロアチア語しか話せません。どこに行くの?と英語で聞いてみましたが簡単な英語も通じなくて、これまで英語ですべて済ませてきた英語至上主義の私は非常に困りましたが、そこで彼女はスマホを取り出して、これに向かって話せというジェスチャーをするのです。彼女は私の言っていることをスマホを通じて理解して、返事を返し、私もそれを読んで理解するというように会話は進みました。ホテルは空気が悪いので散歩に出たところだということがわかり、またねーと手を振って別れました。
それは翻訳機のおかげで意思疎通ができたうれしい体験でした。それ以来、すっかり翻訳機のファンになった私は、次に使うチャンスをうかがっています。英語の教師である私は「完全には通じない」だろう翻訳機はダメだと思っていましたが、実際のコミュニケーションの場面では、必ずしも完璧でなくてもいいと気づかされました。
さて、機械翻訳は言語間の壁を取り払うという人類の悲願を達成することができるのでしょうか。今のところ、多少の間違いを許容できるようなタイプのコミュニケーション(先述のような知人との立ち話)では十分に使えそうですし、また定型的な文章や語彙が多く、文脈理解をあまり必要としない技術翻訳では既に広く使われています。ウェブサイトの内容を自動的に翻訳してくれる機能もブラウザに搭載されており、だいぶ変な日本語にはなりますが、概要をつかむことは可能です。
機械翻訳はニューラルネットワークを使ったものになってから精度が上がってきましたが、さらに生成AIが登場したことで、今後は文脈をより理解した翻訳ができるようになるそうです。文脈理解(もしくは文化の理解)がどの程度できるかが、英語と日本語のような構造的に距離がある言語では翻訳の鍵です。それが機械にどこまで可能なのか、今後の発展に注目していきたいと思います。